堀 秀村(ほり ひでむら)1556年〜1599年
近江国鎌刃城城主。浅井家重臣。
当代記によると「元亀元年(1570)堀次郎並びに家の子、三郎兵衛、信長に属し、これ鎌の刃の城主、武辺ものなり」とあります。三郎兵衛というのは、樋口三郎兵衛直房という部将です。
また、堀次郎歳15歳と出てきますので、信長の近江侵攻当時この樋口が補佐役を務めていたとが書状などからも分かるそうです。
堀秀村と樋口直房は、織田方に寝返ります。その後、浅井長政に攻められ、一度は城を奪われますが、姉川の合戦の勝利により再び鎌刃城の城主となります。
画像は『信長の野望・天道』(C)2009 KOEI Co., Ltd. All rights reserved.から転写

【箕浦の合戦】
 姉川の敗戦の後、長政がまず狙ったのは小谷城から一番近くにある秀吉(当時、木下藤吉郎)が守る横山城でした。
長政は、横山城近くに陣を張り、城の南方にある織田方の鎌刃城を家臣の浅井七郎井規に攻めさせます。
鎌刃城を守るのは堀秀村と樋口直房以下500足らずの兵。一方の浅井井規が率いる軍勢には一向一揆も加わり5000となっていました。横山城の秀吉はこれを受け出陣しようとしますが、浅井長政の本隊が陣を張っていて動けない状況でした。
そこで秀吉は城兵のほとんどを城に残し、自ら精鋭100騎のみを率いて出陣します。
秀吉は浅井勢に気づかれないよう山の裏道を進み、堀・樋口軍と合流します。
10倍近い兵力差がありましたが、浅井井規が率いる兵の多くが一揆勢であったらしく組織もまとまっていなかったので、
秀吉は積極的に攻めかかります。 箕浦の下長沢というところで激しい戦闘になり、浅井・一揆勢は秀吉軍の猛攻の前に
北方の本隊へ向け敗走を始めます。しかし、下坂のさいかち浜で体勢を立て直し反撃に出ます。
しかし、結局抗しきれず八幡神社下まで押し込まれ、兵を撤収。この間、横山城も浅井本隊の攻撃を受けていましたが、
秀吉の留守を任されていたのは知将・竹中半兵衛であり、みごとに守りきりました。
この箕浦の一戦。
なぜ秀吉は危険を犯して出陣したのかというと、鎌刃を居城とする堀氏はこの地域(坂田郡)の有力国衆で
堀氏を見殺しにすれば織田家に従っている磯野員昌始め、江南の他の諸勢力が再び浅井氏に寝返る可能性があったからです。

【堀秀村のその後】
先ほども出ました樋口直房ですが、浅井氏が滅びた翌年、横山城守将など要職を秀吉から任されるほど重く用いられていましたが、
越前・木目峠に布陣した際、鎮圧途中の一揆勢力と単独で講和を試み退転したことが秀吉の知るところとなり、
妻、一族郎党とともに秀吉の追跡を受け命を落としました。 
旧家老の直房が討たれたことにより、堀秀村は改易となりましたが、「寛政重修諸家譜」によると、その後彼は豊臣秀長に仕え、
紀伊国桐部谷の一揆討滅にも参加しています。江戸時代は1500石の旗本として堀家は存続したそうです。

関連リンク
堀 秀村『ウィキペディア(Wikipedia)』

鎌刃城近江の城郭